箪笥は無いが肥しはある

自問自答、備忘録、徒然なるままに日暮液晶に向かいて、つまりは掃き溜め

言語学の適当過ぎるお話

※本記事は書き手の理解やスタンスなどが大量に含まれているため眉にたっぷり唾をつけながらご覧ください。

 

 

 人文系の学部を出た友人に「言語学を専攻している」というような話をすると、大抵「一般教養にあったから履修してみたけどよくわかんなかった」「面白いんだろうけど面白いところに行くまでにすごい時間かからない?」などなど返ってくる。専攻していた身で言うのもどうかと思うが、確かに一般教養や必修講義として受ける言語学は一見サンお断りでっか??というような特定の変態が食いつく内容が多いように感じる。

かといって、言語学は全く面白くないのか?もっとこう、コメディー雑学的に楽しめる何か面白みはないのか?と言われたら、そんなことはない。割と小話として面白いものはかなりある。よって、今回少しだけ「確かこんな感じだったよなー」くらいのノリと理解で言語学の楽しい話だけしてみることとする。

 

グリム童話はグリム兄弟の創作物ではない

 私が専攻していた、というより主軸にしていたのは日本語学及び日本語教育学であるが、大抵「英語学」「日本語学」「中国語学」と言われたら、その言語の文法について重箱の隅をつつくような研究をするのが主だ。むしろ「言語学」と聞いたら現在は大体の人が「どうせ文法やってるんでしょ、’~ガ’と’~ヲ’の違いとか」と考えるだろうし、私だってそう思う。

 しかし、初期の言語学とは極端に言ってしまえばラテン語の優位性を示すためだとか、ラテン語からどのように派生に派生をしていってどのくらいラテン語の形を残しているのかを示すための比較言語学に近かった。何でそんなことしたか、何故そのようなことが言語学として確立できたのか?理由は簡単。

ラテン語できんで学問できると思うなよ!」

っていうのがあったから(らしいよ)。いやもうラテン語できない学者=文盲みたいでやばいね。

 そんな理由で、例えば現在でいうところのフランスだとかドイツだとか、あらゆるところで話されていた言語を調べてどのくらいラテン語とかけ離れているのか・共通しているのかを調べてまとめていったわけで、そこで出たのがグリム童話で有名なグリム兄弟。グリム童話とは、各地に伝わる民話を言語比較のためにグリム兄弟が集めて編集した「ヨーロッパ昔ばなし」みたいなもので、別にグリム兄弟がアンデルセンイソップルイスキャロルetcよろしく創作したわけではない。童話集を作るって目的でもないし、あれはあくまでもラテン語と比較するための材料として集められた民話と言える。もうこれだけで私楽しい。

 

●対照言語から最早哲学では?の域へ

 言語学だけでなく、多分あらゆる体系化された学問の走りは欧州だとは思ってるんですが、言語の大本=ラテン語だったとしても、それは「全ての道はローマに通ず」が物理的に可能だった時代までの話なような気がする。つまり、ラテン語を主軸にして欧州の人々の話している言葉と比較してもぶっちゃけ学問として限界が来るの早くね??むしろ言語学のくせにラテン語固執してるってどうなん??ラテン語と全く違う言語あるぜ??ってなってきてしまう。

 そして「言語って何?何で伝わるの?何で意思疎通できるの?」ってことを考えてみよう、ってしたのがソシュールって人の発想。この辺から哲学っぽくなるけど、現在の言語学の土台になります。ソシュールさんはかなりいろんなことを言ってるんですが、とりあえずシニフィアンシニフィエ、ラングとパロールの話だけすっぱ抜きましょう。嗚呼この時点でポスト構造主義の人が怒り狂いそうだ。

  • シニフィアンソシュール曰く、音の連鎖による記号。もっとわかりやすく言うと「猫」「メガネ」「ノート」「人」など’音声’という記号にされたもの。言葉(発話)そのものといえる。
  • シニフィエシニフィアンに対する概念。例えば「猫」と言われたら日本語話者は「にゃーにゃー鳴く四つ足で毛のある犬派か猫派かで対立が生まれがちな生物」だと分かるが、これそのものが概念。平たく極端に言えば辞書引いたら出てくる説明が概念だよちょっと違うけど。

書いてて思ったんですけどわけわかんないですね!要は「シニフィエ(概念)とシニフィアン(概念を指し示す音)が話者と聞き手で共有されていないと言語は伝わらない」「言語はそれを指し示す概念と結びついて初めて意味を成す」ってことです。今聞くと「いやそんなん当たり前じゃん、それがないと何も通じないじゃん」って大前提なんですが、しゅごいことにソシュールより前の言語学者はこの大前提を全く考えなかったんですね。考えていたのは哲学者じゃないすかね。面白半分に人に話すと「それ何世紀くらいの話?」って言われるんですが、19世紀です。怖、もうペリーが日本に来航しててもおかしくない時代まで指摘されてなかった、怖い。

続いてラングとパロールについても触れましょう。

 

  • ラング→語彙とか文法、社会生活を送るうえで必要な言語上の約束事。文法。比較的普遍で変化が起きにくい。
  • パロール→個人的な言語運用。「今日病院に行った」とか「新しい靴が欲しくなった」とかメッセージの類。

やっぱ書いてて思うんですけどわけわかんないですね!まあラングはいわば文法体系のことで、文法ってそんな大幅に変わることってそうそうない。1000年前の日本の文章とか、今の人でもちょっとは直感で読めちゃうわけですから、言語上の約束事って変化しにくい。文法に大幅な変化がぽんぽん起きるということは、せっかく出来上がった言語とそれを指し示す概念という土台が崩れに崩れることを示すわけで。そしてソシュールさん的には「言語学はラングを扱うべき」、つまり比較とかしてないで文法とか語彙とか音声見ろってことを主張してその後紆余曲折がさまざまな分野(社会学・思想・文化人類学・心理学諸々)で起きましたが、現在の言語学の土台が生まれました。

 

●簡潔にまとめると「言語学」の暗黙の了解って?

悲しきかなラテン語優位からスタートした言語学でしたが、その言語学ラテン語があんま得意じゃなかったらしいソシュールによって「比較言語学」の枠に入れられる形と相成りました。現在の比較言語学の実情は正直よく知らないんですが、言語学の「暗黙の了解」は適応されているだろうなあと想定はしています。で、その了解は以下の通り。

 

・言語に優劣はなく、どの言語も同等に複雑である。

・言語は変化し続けるものであり、そこに良い悪いは無い。

・どの言語も平等に複雑な表現を作り出せる。

 

当たり前じゃろ、と思っている人はありがとう。そして当たり前じゃろと思っている人はぜひとも中学校2年国語の教科書の文法を見直してみてほしい。

国語は国語なのに日本語学とは違うのだ。